何が幸せで正しいかの意見

かなりご年配の方々からお説を受けた。あなたの選択は間違っている、と。

確かに、障害があったとき果敢に挑み乗り越えようとすることは尊いと思う。そして、そうしてきた部分もある。逆にそうしなければ、いけないんだという無意識の思い込みも持ってきた。

しかし、本当にそうだろうか、と考えるようになった。苦労とは得るものや希望があるからがんばるのであって、それは苦しみなどではない。むしろ、自分に酔ってしまうことさえあるのだから。

では、苦労や戦いを避けてはならないのだろうか。それを「尻尾を巻いて逃げるのか」と簡単に言われてしまうことに無性に腹がたった。その苦労や戦いは、何が目的なのか、何が希望なのか、それをすることによって余計に傷つくのではないのか。あなた方は、それに答えられるのか。そもそも、私が幸福と感じるものが何なのかを無視した議論とは、一体何なのか。

「君のために間違った判断をしてもらいたくない」というのは、私の人生における幸福感に対してどのような資格を持っていっているのか。

確かに、未熟であり、これからという未成年相手ならば伝えるべきものもあるかもしれない。どうすれば、充実感や達成感を味わえて自信に繋がり前向きに生きていけるか、といった経験や指針も少なく明確な自覚はないだろう。

しかしだ。40歳を超えて人生の折り返し地点を回っている人間が、超競争社会で弱肉強食の切った張ったをしていたビジネスマンが、例えばラーメン屋に転身して自分の幸福感を得ながら人生の最後に向かって金や地位以外、家族との時間や焼き鳥屋で焼酎で赤ら顔になることを追い求めて何が悪いというのか。

言い換えれば、幸福感というものは歳を経ないと分からないことが多いのではないのか。そもそも、人ぞれぞれではないのか。平凡な人生を送り、夕方に夕焼けを見ることで幸せを感じるのは間違いだとでも言うのか。

またしても漂泊民さんの希望の舎だが、

何でもかんでも精神論で片付けようとする単細胞な輩が跋扈しているからなのか。

ある課題があり、それを分析し効率的に解決する方がよいはずである。

無駄な努力や苦労をしない方がよいに決まっている。合理的思考がすべてに勝るとは思わないが、この世はあまりにも非合理的な物事に覆われているように思えてならない。「苦労は買ってでもせよ」というメンタリティはその最たるものである。

それは本当に必要な苦労や戦いなのか、人生の折り返し地点を回ったが、まだ言い訳しながら生きていくには長すぎる年齢であるのも確かであれば、より幸福に生きることに取り組むこを考えたくなるのは私だけであろうか。

神経をすり減らし、過ぎた時間や人間の結果が残っていない、これに気が付いて生き方を変えたくなる年齢を単なる弱気と切り捨てるのはたやすいが、読んでいただけた方はいかがお考えになるでしょうか。

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