心当たりがないものやあっても不当に誹謗中傷される、ということがどれだけ辛いか。
心が折れます。もう世の中で生きていく場所がないのではないか、誰も味方がいないのではないか。それへの反論をどうすれば良いか、反論する気力さえ怖くて湧かないこともあるだろう。多少の心当たりがあればなおさらだ。
また、それによって信用が傷つき、実害が生じることさえある。
まずもって、誹謗中傷とは、ここまで憎むべき行為だということがよく分かった。される人間の気持ちが痛いほど分かった。
その場合に心を支えるのは、「人の噂も75日」というものかもしれない。厄介なのはインターネットだろうが。
さて、誹謗中傷への対処は2種類ある。一つは法的な対処で、実害が生じる場合の問題だが、ここは〝(心の)よりどころ”なので専門家に譲る。
それ以前に、心が折れるということへの対処が出来なくてはファイティングポーズもとれない。
デール・カーネギーの「道は開ける」にヒントがある。
低俗な人間は偉人の欠点や愚行に非常な喜びを感じる。不当な非難は、しばしば擬装された賛辞であることを忘れてはならない。
人々は他人のことなど気にかけていない。他人の評判について無関心である。朝も夜も絶えず自分のことだけを考えている。他人が死んだニュースよりも、自分の軽い頭痛に対して1000倍も気を使う。
人の上に立つ限り、非難を免れることは不可能だ。気にしないようにするしか手はなく、そして、それで十分だ。・・・あとは、古傘をかざして雨が流れ落ちるのを放っておけば良い。
こういう時は、自分への自信を失っていく。それが、神経を衰弱させていく。
自分に自信を持っていくのが良い。自分を100%分かってもらおうと考える必要はない。誰もが、そんなことはできるわけがないのだから。
なお、なぜか私を傷つけた人間は、これまで必ず大きなしっぺ返しを受けている。因果応報ということだろうから、自分も心していなかないといけない。世の中に自分より若い人が増えていくと、余計に心に留める必要があることを痛烈に感じる。