苦しみと神羅万象

ここ数日、個人的にあったので記事を書くのがとまっていたが、非常に大きな考え方に出会った。

寺も神社も行きながら、今はカトリック教会で聖書の勉強会にも出てみている。

問題は「ヨブ記」なのだ。

キリスト教は絶対唯一の神、三位一体の神というのを、とにかく信じることに繰り返し言及している。

信じることで救われるのだという。

しかし、ヨブ記はかなり読むと趣きが異なる。実は、このヨブ記はクリスチャンでないある方に勧められて読んだ。人間そのものを深く書いている、と。

インターネットで調べてみると、このヨブ記は世界中で聖書の理解に対する混乱を生んでいるようだ。

苦しみとは、経済的なもの・健康上のもの・人間社会で生じる関係の3つだ。その3つが、ヨブには生じる。そして、それは非常に非情で不条理に。神がサタンと掛け合いをして、何の罪もないヨブに極めて厳しく不幸たらしめることを許すわけである。

理由のない苦しみを与えられたヨブはもがき苦しむ。今まで、神を信じてきたのにだ。

そして、その理由を3人の友人と議論し、最後は喧嘩にまで発展していく。しかし、神はずっと口を閉ざして答えない。

カトリック教会の人にヨブ記の解釈を求めたが、誰一人まともに回答できなかった。ヨブ記の解釈を与えないまま、神を信じろというのはあまりにも無責任と思った。だって、それを理解しないままでは、いつかヨブと同じことになって裏切られたとさえ思うのだから。ヨブがそうであったように。

このヨブ記は、苦しみを抱えている人間が読むには余りにも残酷だ。そして、その解釈を理解できたとき、余りにも大きな希望に変わる。

私は読み進めていくうちに涙がとまらなくなった。そして、解釈に悩んだ。

そして、辿り着いて分かったことがある。苦しみや苦難を因果応報に求めるのは、あまりにも厳しすぎる。そして、それが生じたことに理由を求めることこそが苦しみのもととなる。

今、直面している苦しみの理由を求めても救われることはない。それは、単なる自然現象で巡ってきただけということでしかない。不治の病にかかった理由を求めることで救われる人などいないだろう。

ヨブ記でこれだけは言えるのは、苦しみや困難には必ず良い解釈が何かしら見出そうとすることで希望に反転しうること、そして、それは再度やってくる自然現象の変化の巡りで違う情勢に必ず変わるということだ。どう変わるかは分からないが、今とは違うちうことになるのは確実なのだ。

そして、ヨブは救われた。

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