最近、ここ数年ひどかったが、考えてみれば子供の頃からだった。朝が辛いのである。辛いとは、もっと寝たいとか寝起きの問題でなく起きた瞬間から最悪の気分が始まることだ。
起きた瞬間から、物凄い勢いで頭が回転し出す。色んなことを考え出すということは、考えることがあるからだが、考えることとは明るいことではない。
だから、頭痛を起こすこともある。これがひどくなると鬱病の発症にもなろう。
起きた瞬間から、苦難の時間が始まると感じ、そして、これから辛い時間が死ぬまで続くのだ、と。
だから、朝から圧倒いう間に脳が疲れるのだ。
これは、非常に身心にとって悪いとしかいいようがない。
しかし、時間を置いて考えれば、大した問題でないことが分かってくる。正確に言えば、考えたことそのものを忘れ去っている。
これには二段階の対応が必要だ。
第一に、考えない練習をすることだ。歳をとると段々と思考がよそ見をして、次から次にとめどもなく考えていく、まるでネットサーフィンのように脳が回転していく。だから、物凄い疲労感を持つ。考えない練習の方法は目を瞑ること。そして、頭を真っ白に〝しよう”とする努力をする。うまくいかなくていい。ただ、呼吸を整えて白い壁でもイメージしときゃいい。これだけで、なんと頭がすっきりすることか。
第二は、〝今日は昨日よりますます良い日になる”とか〝楽しみが始まる”と無理に声を出すか、声を出すのが恥ずかしければ鏡を見てニンマリしながら自己暗示にトライしてみることだ。宗教がある人なら、神にでも祈れば良い。
何が言いたいのかというと、我々はいつも何かを考えている。そして、考え方のクセもある。考えるという動作は、頭だけでなく心でも動いている。
だから、本当はコントロールできるはずなのだ。どうコントロールするか、ということになる。
また、MAKI♂さんのところだが、
それを問題だと言っているのは、あなただけです。
ということだ。
生きている時間は、考えるという作業の連続が大部分を占めているという事実を改めて認識しておくことが極めて重要だと思う。
だから、考えるか考えないか、考えるなら何を考えるか、これのコントロールが自分の人生のコントロールに繋がりうるわけだ。
希望の舎さんのところだが、
生きていることが仕事だ、と一度でいいから僕は声を大にして言ってみたい。
苦役的な労働から逃れて、生きている実感をこの手につかむために。
生きている実感とは、今、自分を取り巻くものや自分がやっていることをどう考えるのか、それによって変わりうる。自分がどう考えるか、そのものなのかもしれない。
しかし、自分の考え方のクセと格闘しなければ、なかなか思う通りにいかない。言うは易しだ。だが、漫然と考えず生きている人よりはよっぽど良いだろう。考えすぎも問題だが。
脳をいたわりならが思考をコントロールできるなら最高だ。〝人間は考える葦”なんだろうから。